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2011年8月31日 (水)

イタチとネズミ

今の政治家、民主党の国民感覚のなさには言葉は無いので、もう今は書きたくない。

しかし、数日前に見た、この現場には、気の引き締まる思いがした。

私の目の前に、二匹の動物が走ってきた。

一匹がイタチで片方がネズミだ。

逃げるネズミをイタチが追っている。

ネズミが小さな穴に入ろうとした時、イタチが追いつき噛みついた。

ネズミは、大きな声を上がることなく、イタチに噛みつかれ、このネズミはイタチの命の糧になった。

何という迫力だろう。まさに命をかけた戦いであった。

私の頭は、その時だけは、曇りのないすごくシャープな感じになった。

生きることを見せてもらったのだ。

私は肉を食うが、豚も牛も鳥もこの手で殺したことがない。

生きると言うことは、他の命を奪い、その命を喰らわなければ生き続けられないのだ。

日頃、ぼーっとしている頭に、とても良い刺激となった。

野に生きる者達は、日々命がけで生きているのだ。

私も見習わなくてはいけない。

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2011年8月27日 (土)

国賊と天誅

国賊と言う言葉がある。

国にとても迷惑を掛け、国を疲弊させ、ろくな事をしない輩の事を言う。

日本には、今、沢山の国賊がいる。

どこかの党の、三馬鹿である。

最初の一人は、おぼっちゃまで、平気で嘘を付くし、次は政治のセンスが全くなく、辞めろと言われても辞めない輩である。

その中でもっとも悪いのは、平気で嘘を付き、未だに裏で政治を牛耳る輩である。

こいつは、もう、どうにもならない。今回の日本の代表を選ぶ選挙にも、しっかり顔を出し、言うことを聞きそうにない、前原を切ろうとしている。

日本は法治国家であるから、この輩は、殺されることはないが、一昔ならば、国を憂う政治結社が、天誅を加えるところである。

私は、彼が本当に日本を良くしようと思っているようにはどうしても思えない。

正に党利のことばかりで、国民を欺くごとく、見え透いた絵に描いた餅を並べている。

もし、彼の押す、海江田とかが勝つようでは、あの国民をなめた様な薄ら笑いを見なくてはいけなくなる。

日本をこうしたのは、こんな国に導いたのは誰なのか。

世界中に笑い者にならないよう、立派な指導者を選んで欲しいものだ。

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2011年8月25日 (木)

運命愛

運命愛と言う言葉がある。ニーチェの言葉らしい。

私はニーチェたるものをあまり知らないが、若者に今、人気らしい。

言葉の意味は、運命を愛し、自分にかかる不幸、幸せ、全てを運命として素直に受け入れ、その運命を愛せよと言うことだ。

私の好きな言葉に、有無同然という仏教の言葉がある。

物があれば、それが無くならないかと心配する。又無ければ、無いと欲しがり心が落ち着かない。所詮、世の中、有っても無くても、同じ様なものだ、と言うことである。

つまり、両方とも、あるがままに起きる現象、運命は、所詮何をしたところでどうにもならないのだから、運命を素直に受け止め、気に病むことなく、ある種の諦めから物事を考えれば、穏やかに生きられると言うことである。

そして、ここからが大事なのだが、何事も気に病むことなく、積極的に、今で言うボジティブに生きろということらしい。

今の世は、またぞろ、宗教や、哲学が必要、必然な時代になりつつあるのかもしれない。

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2011年8月23日 (火)

生き物達の存在感

山を歩いている時、個々の草、木、色々な生き物の存在感が伝わってきた。

それは、まるで何かを私に話しかけて来るように感じた。

世の中にあるもので、個のないものはない。

小さな石ころ、アリ、細菌、ビールス、どれをとっても一つ一つが個であり、同じ物は存在しない。

歩いている私に、その生き物たちが、生きているでしょと、言っているように、存在感を感じたのだ。

確かに、植物は光合成という呼吸をし、動物も勿論そうして生きている。

人間だけ決して特別でなく、ただ勝手に思い上がっているだけだ。

此の存在感を感じる感覚は、今までになかったことで、少し感動したのだが、良いものだかどうか分からない。

歳を取ったせいであるのか?

いや、むしろ感じるのが当然なのかもしれない。元々は、同じ遺伝子から発生した生物なのだから。

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2011年8月21日 (日)

自然の知恵

私はよく散歩をする。

散歩の道筋には、小さな川があり、山の側も通る。

私は自分で作った手製の竹の杖を持ち、麦藁と甚平姿で歩く。

竹の杖は、足が悪いわけでもないのだが、山など歩く人には分かるが、とても便利なものなのである。

因みに、この杖は、水戸黄門様の杖を似せて、取っ手が太く先が細いなかなか良い杖である。

何も考えずに無心で歩いていると、色々、ふと、アイデアが浮かんでくる。

よく、作詞家とかが言う、何かが降りてくる感覚だ。

一体どういった訳なのだろうか。

人は自然の中に入り、素直な気持ちになると、動物が持つ本来の生きる力が働き、問題を解くヒントを与えてくれるのかも知れない。

自然の持つ力は、例えば、自分の細胞の60兆個の一つの中に、自分を作った設計図遺伝子があり、それにより生かされているという奇跡的力だが、計り知れない力がある。

この力は、到底人間の定規ではかれるものではない。

私のこの不出来な脳細胞君も、自然の知恵を借り、もっと大きな人間になりたいものだ。

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2011年8月17日 (水)

必ず起きる食料危機とエネルギー危機

環境破壊、異常気象、これにより必ず食料危機がそう遠く無い未来に起きるでしょう。

人口増加により、地球上のキャパシテイを越え、間違いなく食料は足りなくなる。

現にアフリカでは、そうなっているが、日本では、金がものをいい、金で食料を買っているので分かりにくいだけだ。

このまま、放っておけば、アフリカのある国の様な飢餓を味わうことだろう。

つい数年前を思い出して欲しい。冷夏になり備蓄米も不足し、大騒ぎをしてタイ米を輸入した。そして、日本米が店頭から姿を消した。

幸い私は、常に米を余分に10キロほど備蓄していたので、どうにか一ヶ月は持ちこたえることができたが、政府には、この意識が希薄だ。

今流行の金も良いが、食料は最優先、いざとなれば、人は一杯の米で人を殺し、女は体を売るのである。

先ずは、食料を備蓄し、100%自給出来る国にすることが、今最優先で考えて欲しい。

これは、国が駄目なら、個々でもよいから習慣づけるべきだ。

次に、エネルギーだが、政府はどうしていとも簡単に、もんじゅ計画、核燃料再処理計画を破棄したのか理解出来ない。

自然エネルギーはとても重要だが、それと平行して、核エネルギーの安全性を高め、同時に研究していかなければならない。

昔、ドイツとイタリアと日本の三国で、世界と闘ったが、今回、ドイツが先がけて反核を表明したが、またぞろ、日本とドイツが先頭を走り、痛い目にあうかも知れない。

政治家諸君は、核エネルギーの安全性をどこまで100%に近づけることが出来るかを研究すべきで、安易に心地の良い言葉で、核のない社会などと無責任に言ってはならない。

ただ、マスコミ諸君の、幼稚で無責任な批判が、政治家の言葉狩りをしている現状では、正直な意見を言いにくいのも確かである。

頼むから、マスコミの方々、日本を正しい方向へ導く報道を、気概を持ってして下さい。

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2011年8月11日 (木)

長寿遺伝子

遠い昔から、権力者が追い求めていた不老不死の妙薬が、科学的に解き明かされつつある。

それは、我々が体内に持っている長寿遺伝子の活性化の方法が見つかったカラである。

この遺伝子が活性化すると、体内にある各遺伝子に対しても、その活性化の輪を広げ、細胞全体が、元気になるのである。

面白い実験では、24歳になる猿を、長寿遺伝子を活性化した猿と、してない猿に分けてみたところ、活性化していない猿は、皺だらけで、換えが抜けいかにも爺さん的だが、反対に活性化した猿は、毛もふさふさし、皺もなくすこぶる元気である。

その差は何で起きるかと言えば、一日の消費カロリーの差だそうである。

元気な猿は、カロリーを30%減らして育てたそうである。

要は、食料が足らず、飢餓状態に対応し、長寿遺伝子は活性化するのである。

遠い昔、食料が不足した時、食料難の時期を上手く生き抜き、生殖能力を温存し、食料が豊かになるまで、頑張って長生きする為に、細胞がその機能を創ったのである。

だから、反対に、飽食をすると、もうこの個体は死んでも良いと判断し、細胞のメンテナンスを止めてしまうのである。

それにしても、60兆個の細胞の小さな一つに、こんな機能まであるとは、本当に生命体とはすごいものだ。

ともかく、長生きをしたいものは、質素な食事がなによりであるようだ。

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2011年8月 5日 (金)

戦争と原爆

普通に生活している人間は、隣りの親父を殺そうとか、金を取ろうとか、娘を拐かそうとかは思わない。

それは昔の人間も、基本的にはそう思わない筈である。

しかし、人間はそれをする。一対一なら起きない争いがどうして起きるのか。

それは、やはり社会性を持つ動物の性なのかも知れない。

小さな集団が出来、生活に余裕が出来ると、必ず欲深い人間が現れそれがボスになる。

このボスは、他の動物にでも現れるが、人間は欲深く、自分の生きる生活以上のものを望み、集団が巨大化する。

この巨大化した組織が、一部の人間に動かされると、戦争がおきるのである。

この一部の人間は、ヨーヨッパなどでは、戦争時には、将校や幹部には、礼節を求め互いに非道なことを慎むようにして、反面いっ兵卒にはそんな特権は与えていないのである。

戦争で犠牲になるのは、そこらの気のいいおっさんや、近所のお兄ちゃんなのである。

要は世の中の殆どの人間は、隣のおっさんを殺そうとは思わないのである。

世の中、この一部の欲深い人間に、また、マスメデイアに踊らされ、戦争をするのである。

根本的には、人口が少なければ、それぞれが富を充分配分し争いはないのだが、こう人口を、欲深い一部の人間のための上利を増やすために増やしていると、戦争をせざるおえなくなる。

そして、行き着く所が、核爆弾なのである。

理論的には、効果的に人間を減らし、自分の勢力を増やせるのだが、あまりにも破壊的で自爆的である。

敵が核武装すれば、勿論こちらもしなくてならない。

しかし、となりの親父と、鉄砲を持って何時もにらみ合いをする生活は、出来れば願い下げである。

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