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2013年7月31日 (水)

青柿を食うサル

今年の夏は、エサが無いのか、サルをよく見かける。

と、まあ、他人事の様に言っていたら、家の柿の木にサルがやって来て、まだ青い柿のみを食べた。

木が揺れるので何事かと見ると、サルが木の枝に腰掛けて、良い子にして柿をムシャムシャと喰っている。

困ったものだが、彼らも好きで危険な里まで下りたのではあるまい。

人間は、喰うことに関して、殆ど心配は無い。

多分、日本にいれば、何かのミスがなければ、誰でも生きるだけのものは喰わしてくれるのだろうが、サルには明日が分からない。

今だけが、生きる全てであり、目の前のエサが全てなのである。

だが、本当は、まあ、数ヶ月先の食料は間違いなく食えるだろうが、半年一年後には、どうなるか分からない。

いや、日本全土規模の災害が起これば、明日さえ分からないのである。

サルは、青い柿を食いながら、幸せそうに遠くを見ていた。

我々人間は,当たり前と思って毎度食物を食っているが、食事をし、それで生きる力を貰った体からわき起こる喜びを味わいたいものだ。

それは、味とかではなく、体が感じる喜びである。

おそらく、自分も、2日飯を抜けば感じられるのだろうが、分かっていてもせいぜい一食抜けば、それ以上はやらないし、しようともしない。

ある人は、戦争の事を忘れない為にと、一年に一度絶食をするそうだが、一度は挑戦したいものである。

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2013年7月28日 (日)

時の流れ

人生今は、まあ、よく生きて100年。

地球が太陽の周りを100周する間である。

日で言うと、36500日。

おぎゃあ!と、生まれた日から、逆算的にいうと死に向かって近づいている事になる。

しかし、最近は歳を取ったせいでもあるが、日々の時間が経つのが早い。

おそらく殆ど生活のパターンが固定化され、変化に乏しいせいなのだろう。

変化のある生活も良いが、また、淡々とした生活も捨てたものではない。

どんな生活の送り方がよいか?

悔いのない生き方。

これはよく言われるが、悔いのない人生など有るわけ無い。

それは、言い換えて、悔いでは無く、良い経験として今後の生き方の糧にする。などのすり替えである。

悔いとは、失敗をする事によりおこるのだが、成功する人生を選ぶと、それと同じくらい失敗をすると考えたほうがよさそうである。

失敗を恐れていては、成功しないということである。

しかし、ただ、たんたんと時の流れのままに生きるのも、決して間違った生活ではない。

どちらを選ぶかは、個人差である。

ただ言えることは、どんな生き方をしようが、時の流れは平等に流れていくことである。

今、ひぐらしが、短い命の歌を歌っているのが窓から聞こえてくる。

忘れていた、全ての生き物にも、時の流れは平等であった。

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2013年7月20日 (土)

入れ墨の男の子

仕事上で、無茶を言う子がいたので、思わず声をあらげてしまった。

よく見ると、腕の先まで龍の入れ墨がある。

若くて、とてもハンサムな男の子なのだが、勿体ない。

よく話すと、良い子なのだ。

分かれるとき、握手をすると、「有り難う御座います」と頭を下げた。

彼も、もし良い環境を与えられれば、違う人生を送るのだろうが、

彼が良い人生を送ることを祈りたい。

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2013年7月17日 (水)

ザトウクジラが見せた愛

動物の純粋な愛は、犬の主人に対する、絶対愛の様に、有る限られた関係上に生まれると思われていたが、動物達にも見も知らずな他の動物に対しても、愛情をみせることがあるようです。

私は、ザトウクジラは、かなり高等な生き物で、彼らは言葉を持ち、したがってかなりの思考力があると思っていましたが、それ以上に、素晴らしい動物愛を持っている事を知りました。

それはザトウクジラが、シャチに襲われた他の種類の動物をを助ける映像を見たからでした。

その映像は、シャチが母クジラの子供を襲いかかった処へ、4,5匹のザトウクジラが通りかかり、シャチを大きな胸びれや尾で追い払った映像でした。

また、映像にはありませんが、シャチに追われたオットセイを胸びれの付け根に庇って、安全な処まで運んだこともあったそうです。

シャチは、勿論、ザトウクジラを襲うこともあり、ザトウクジラにしてもリスクが無いわけではありません。

しかし、人間と同じ様に、いや、それどころか、自分の身を犠牲にする可能性をおかしてまで、他の動物を助けるのです。

これは、なかなか人間にも出来ない崇高な行為です。

どうしてこんな行為をするのでしょうか?

欲深い人間に見せてくれた、無償の愛とは、まさにこのことの様に思えます。

清らかな心を持ちたいものです。

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2013年7月13日 (土)

戦争と平和

日本は平和である。

人類の歴史の中に戦争の無い時期は殆ど無い。

戦争は力のバランスが崩れると起こりやすい。

例えば、最近の中国であるが、国力が増し軍事力が大きくなると、バランスが崩れ、つい、弱小国にちょっかいを出したくなる。

仮に日本やフィリピンなどがアメリカと同等の軍事力を持っていたら、当然ちょっかいも出さない。

よく平和主義者が、平和のためには軍事力を放棄すべきなどと、夢の様な話をするが、これはとんでもないおとぎ話で、自然の法則で、弱肉教職の世界では、あっと言う間に弱いものは死に絶える。

強く平和を望むなら、やはりそれ相当の軍事力がなければ、ニコリと笑って、簡単に攻め落とされる。

小さな子供が、いくら大人に苦情を言っても適当にあしらわれるが、その子供が鉄砲を持っていたら、適当にはあしらわれない。

今、日本が隣国に馬鹿にされているのは、情けないが、平和惚けの政治家やマスコミのせいである。

日本人は、平和を維持するためには何をしなければいけないか、真剣に考えなくてはいけないと思う。

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2013年7月 3日 (水)

魂の必然性

生物の一単位が細胞である。

元々生命体は、原則単細胞が基礎である。

だから、我々も、最初はたった一つの細胞から始まる。

海中で発生した単細胞生命が、自分をより強く自然に適応するための手段として、細胞同士が結合し少し大きな生命体を創った。

しかし、細胞同士結合して大きくなると、どうしても細胞全体の指揮命令系統が必要になってくる。

そこで出来上がったのが神経細胞である。

神経細胞が、生命体全体の行動を管理運営するのである。

ところが、この神経細胞も所詮個々の細胞の集まりである。

そこで、どうしても必要になったのが、自我、即ち私という個人の魂である。

人間の60兆個の細胞を、何かに託して管理する必要上、どうしても個、即ち魂が必然的に必要なのである。

また、当然人間以外の全ての動物にも細胞全体を管理する為、体全体を管理運営する一つの決定場所があり、それが個であり、魂である。

ただ、人間の体を物理的に見ると、ただの細胞の塊であって、魂などどこにあるか分かる筈もない。

よく人は、魂など有るはず無い、ただの神経系、即ち脳細胞のただの反応などと言うが、まあ、大宇宙が謎だらけの様に、自然の必然に適応するため、多細胞を管理するために必然的に魂は生まれたのである。

宇宙のダークマターにしても、宇宙を組成する半分以上の存在なのだが、未だにその正体が見えない。

ダークマターなどは、目の前に有るはずなのだが、見えない存在なのだ。

ただ、あの世があるかどうかは、永遠の謎であろう。

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2013年7月 1日 (月)

若者の犯罪

私がよく行く店の近くで、殺人事件があった。

お爺さんと、叔父さんを包丁で刺し、自分も手首を切り自殺を図った。

しかし、死にきれず自分が警察に電話し、助けを求めたと言う。

理由は、自分の両親が農作業を叔父や祖父に命令され、いじめられているからだったと言う。

理由は、個人的でなく、まあ、少しは理解できるが、後がいけない。

おそらく、本人は、自分が二人を殺し、その後始末は自分の死で償おうと決意しての行動だったのだろうが、それがどういう事なのかという想像力が欠けているので、実際に行動して、人は殺したが、自分が痛い目にあうと、たちまち命欲しさに、警察に助けを求めたのだ。

どうも、最近の若者の犯罪は、幼稚すぎる。

テレビゲームの感覚で犯罪を犯す傾向があるというが、その通りかも知れない。

人を殺す覚悟が有るほどなら、どれだけの事を成すことが出来るか。

また、自殺する覚悟があるならも然りである。

実に勿体ない事である。

やはり、現代はあまりにもバーチャルな映像やゲームが多すぎて、現実的な想像が出来にくい。

人は味わい、触れ、殴られ、泣き、もっと現実に生きなければならないが、どうも、若者はバーチャルの世界にいる時間の方が長過ぎるからかもしれない。

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